kairyu span

アクセスカウンタ

zoom RSS いまなぜ? 新井将敬なのか…

<<   作成日時 : 2006/03/28 17:21   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

 いらないのなら…… と貰った本たが。
画像

「捨てるに惜しい、洋酒棚にいいサイドボードがある、取りに来い」
一昨日、携帯に連絡があった。福岡に越す先輩(大学)だ。昨日、約束時間に行くと、先輩はいない。20分を過ぎ、時計を睨む、PM 2:20。約束はPM 3:00。時間を間違えたのに気付くが、部屋に数十冊の本が乱雑に散らばるのを見て、出直す気はなくなる。座込んで本を取った。まず「大野伴睦回顧録」が光る。彼は野武士のような荒っぽい政治家だった。力道山の後援会長もやっていたのでは、と虚空を見て、記憶を辿る。次に手にしたのは、北九州市の新しい挑戦「紫川物語」だった。蔵書を見れば、その人の性格が分かる。そんなことを考えながら、二冊を捲っていると、先輩と奥さんが現れた。
「読みたい本があれば、持って帰れ!」と、先輩が言った。すかさず、この二冊を貰った「これはどうだ?」と、先輩がヤクザの書いた本を出す。丁重にお断りした。すると今度は「『代議士の妻』があるぞ」と言う。講談社発行 著者は『極妻』の家田壮子だ。それは頷いて貰った。
画像

 事務所で「紫川物語」から読み始めた。数ページ読み、面白くない。「大野伴睦回顧録」に移った。文句なく面白い。あとでじっくり読むことにした。最後に何気なく「代議士の妻」を見て、ギクッとし、手元が震えた。後藤田正晴・羽田孜・海部俊樹夫人らに混り、新井将敬代議士夫人がいる。20Pもある。少し中身を紹介し、新井将敬の履歴を簡単に辿ってみる。いまなぜ? 新井将敬か…… それは分からない。ただの偶然、何の脈略もない。でも、昨日から、なぜか、それが気になる。以下は『代議士の妻』から抜粋したものである。
画像

 昭和61年 新人代議士が誕生。自民党 石原慎太郎 社会党 上田哲 民主党 大内啓伍、各党のスターが揃う東京2区、新人の割込む余地はない、と言われる中、トップと僅か300票差、十万票を超える得票で堂々の2位当選。58年 初出馬で苦杯を舐め、二度目で射止めた、新井将敬だ。両親が韓国籍だったことも話題になった。

「石原さんのところで出るなんて、駄目だよ」「うちは石原さんをやってるから」
 方々で言われた。出自で障害もある、無謀に見える闘いだった。
いろいろな抵抗を乗り越え、少しずつ支持を増やしていた。そこで決定的な事件が起る。「ポスター事件」だ。深夜、石原慎太郎の秘書が新井将敬のポスターに「北朝鮮より帰化」と刷ったシールを貼って歩いたのだ。それだけでなく、新井将敬の古い戸籍謄本のコピーが、選挙区内の有力者に配られていた。

「政治家にならなければ、一般の人には知られなかったのに」と、私(家田)が訊ねると、「日本の歴史上、初めてとなるわけですから、波風が強くても仕方がありません。既成の概念を覆したんですもの」と、婦人がにこやかに答えた。
 と言うが、ポスター事件の衝撃は大きかった。冷静に勤めながらも、夫の将敬氏は書斎の机に座って所信を書き殴り、それで怒りを治めていた。将敬氏は、その対策を一生懸命に考え、眠れぬ夜を過していたらしい。

 私(家田)は「ポスター事件」のあらましを、石原慎太郎事務所にも訊ねた。「確かにあのシールはうちがやりました。事実を隠さずに公表し、有権者がそれを知って、理解した上で、投票すべきだと思ったからです」と、言葉を慎重に選びながら、秘書の一人が答えた。続いて「本人は意識がないと言っても、やっぱり『二つの祖国』の意識がでない、とは言い切れないと思います。政治的に地位が上がり、国益などで利害が対立することが起った時、どう対応するのか ― 重大なことだと思います。『大統領は生まれながらに米国国籍を有する者』と米国に規定があるように、こういう問題がありうるからこそ、候補者は、経歴を包み隠さずに、明らかにするべきだと思うんですが」と、笑みをたたえながらも、彼の眼鏡の奥で瞳が鋭く光っていた。

 官僚としてエリート人生を、順調に過してきた新井将敬氏、政治家を志し、次から次ぎえと辛酸を舐めることになった。昭和58年 初出馬で落選。票数は次点、新人としては大健闘だった。しかし落選は落選だ。落選後、選挙区内の駅に毎朝夕立ち、街頭演説をやった。徐々に効果を表し、後援会ができた。そして100909票、何もないところから始め、多くの支持を得て、二度目の挑戦で初めて国会に送られた。
 当選しても中傷は続いた。「国際性ある政治家」と、褒めるマスコミだけではない。一方的な中傷記事が掲載された。私(家田)が初めて夫人に会ったのは、そんな記事が週刊誌に載った直後だった。話がそのことに及んでも、夫人は穏かな笑顔で、
「義母が電話で泣いてました。何でこんな目に? 息子は自分の将来のために、全てを捨ててきたのに、自分ではどうしようもないことなのに…。どうして、そんなところで攻撃されなければならないの、と。義母は、悲しかったのですね。生まれは、本人にはどうしようもありません。主人の口元のホクロがありますが、それをどうのこうのと言われているのと同じことです。仕方がないとしか言いようがありません」と、笑顔は崩さないが、心なしか夫人の声は震えているような気がした。
「まぁ、次の選挙が大変ね。いくら十万人の人が認めてくれたからと言って、現実は甘くないわね。これから一層、頑張らないとね」
 何事もなかったように、そう言って夫人は白い歯を見せた。
― 10年後も、夫人の同じ笑顔に出会えるだろうか…
私はそんなことを考えていた。――― 家田壮子

    新井 将敬(あらい しょうけい、1948年 - 1998年 政治家)
 本名は朴 景在(パク・キョンジェ)。1966年日本国に帰化。大阪府立北野高等学校から東京大学理科I類に入学、翌年、東京大学文科I類に入学しなおす。東京大学経済学部卒業後、新日本製鐵に勤務。その後、大蔵省に入省。キャリア官僚、29歳で酒田税務署長を勤め、銀行局課長補佐に就任。当時、勢力拡大を目指し若手官僚を取込む渡辺美智雄に見出される。1981年、渡辺美智雄が大蔵大臣に就任すると、秘書官に抜擢された。1986年の総選挙で初当選。以後4回当選する。1990年代、政治改革が政局の焦点になると、改革派の若手論客として脚光を浴びる。1993年(平成5年)の自由民主党の分裂では自民党に残るが、細川護煕の後継をめぐる渡辺美智雄擁立劇では、先行離党、柿沢弘治、太田誠一らと自由党を結成。その後、新進党に合流するが、離党、自民党に復党した。

 一連の証券スキャンダル、借名口座による株取引が問題化。衆議院本会議で逮捕許諾が議決される直前、真相の解明がないまま、都内のホテルで自ら命を断った。部屋には洋酒の空瓶が散乱。自殺を疑問視する諸説あり。山口節生は「新井将敬を殺したのは、他の政治家たちだ」と主張した。
 
 新井将敬を取り上げた書物:河信基『代議士の自決──新井将敬の真実』(発行元、三一書房1999) 大川豊『誰が新井将敬を殺したか』
 新井将敬の自著:『『平成の乱」を起こせー信頼回復の原点はこれだ』(発行元、祥伝社1993),『エロティックな政治―生きるため、死ぬための言葉』(発行元、マガジンハウス1994)

 1990年の新井将敬は平成の竜馬と、もて囃され、颯爽としていた。その頃、韓国で発行する小誌に登場を願ったことがある。取材を終えて、掲載は困るとのオフレコで、彼は出自から、その時の心情を語ってくれた。日本人らしく生きることに疲れ果てていた。同僚の日本人政治家たちは日本人を装う必要はない。がしかし、新井将敬は常に日本人らしさを意識させられていた。証券疑獄で自殺に追い込まれたとしたら、彼の美学として、生き恥を晒すことは、耐えられなかったのであろう。百年にやっと一人出た在日コリアンの政治家だ。惜しい、本当に惜しい人物だった。いまは民主党に一人、いるにはいるが…。

月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
いまなぜ? 新井将敬なのか… kairyu span/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる